2010-12-31 (Fri)
全ては繋がっている。
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お疲れ様です。-mi-です。
その考え方は変わっていません。
物事は、全て繋がっていて、
何かの先や後には必ず何かがある。
人も、物も、出来事も。
全く関係のない様に思える出来事でも、
全てには何かしらの繋がりがあるんだと思っています。
最近、なんかの宣伝でもありましたよね。
ひとつ起こした行動が、世界的な事象に発展する、という内容。
たった一匹の蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を起こすこともありうる、
という話もも読んだことがあります。
どこかのクイズ番組でもみました。
『たこ焼き屋が流行った』というスタートから
『女の子が綺麗になる』という結果までの過程(流れ)を4つ書きなさい、というような。
(1つの正解しかないわけではないのですが、例えば
『たこ焼き屋が流行ったら』⇒(ご飯をたこ焼きで済ます人が増えることで)⇒
(栄養バランスが崩れ)⇒(「たこ焼きを食べた後にはこれで栄養補給!」みたいな商品がでると)⇒
(栄養バランスへの意識が高まるため)⇒『女の子が綺麗になる』とか)
そう。
ずっとそう思ってたんですよね。
『全ては繋がっている』って。
でも最近、「それでも、それぞれの事象は独立してるんだ」と考えを…加えるようになりました。
何かが原因で、何かの結果があっても、
それはそれぞれ独立した事象でもある。
女の子が綺麗になった原因を紐解いていけば、たこ焼き屋の流行にたどり着くのかもしれないけれど、
女の子が綺麗になったことは、ひとつの事象。
そしてたこ焼き屋が流行るのも、また別のひとつの事象。
栄養バランスが崩れるのも、新しい商品がでることも、
全て繋がってはいるけれど、それぞれが、それぞれなんだな、と。
なんて言えばいいんだろう。
人は一人では生きているわけではなく、必ず誰かと繋がって生きている。
それ故に、起こす行動の一つ一つが必ずどこかで誰かに影響を与えている。
だからといって、自分の行動がどんな形で、どこで、誰に、影響を及ぼすかまではわからないんです。
『たこ焼き屋が流行った』からといって『女の子が綺麗になる』という結論しか出ないわけじゃない。
途中の過程が変われば『惨めな女の子が増える』という結果になるかもしれない。
自分の起こした、これから起こす行動がどんな結果を生み出すのか。
それは、決められない。絶対に決められない。
起こりうる影響の可能性としては、百通り…千通り考えられるでしょう。
考えることは重要だと思います。
でも、そればかり考えていて、結局何もできなくなってしまう様ではよろしくない。
考えた上で、どの事象(結果)になっても、
それは自分の選んだ行動の結果であるんだということを受け止められれば、
それでいいんだと思うようになりました。
ちょっと前に、流行語大賞になりしたよね。
『想定の範囲内』
何かが起きた時にすぐに対処できるように、自分で責任がとれるように、
ある程度の過程や流れ、繋がりを『想定』しておく。
重要なのは『その上で行動を起こす』こと。
行動を起こさなければ『想定』も単なる妄想です。
ここ数年、私はその『行動』ができてなかった。
『想定』に捉われすぎて、その先が怖くて『行動』を起こせなかった。
今年も、そんなことがいくつもありました。
『全ての事象は繋がっているけれども、それぞれが独立したひとつの事象なんだ』
とある程度割り切ること。
それが来年の私の課題です。
という若干意味不明な記事を最後に2010年を締めくくらせていただきます( *´艸`)
今年ももありがとうございました。
あなたに優しく素晴らしい、新しい年が訪れますように(-人-)
~*~写真は 2007.02.08 台湾にて、花開く御茶。~*~
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その考え方は変わっていません。
物事は、全て繋がっていて、
何かの先や後には必ず何かがある。
人も、物も、出来事も。
全く関係のない様に思える出来事でも、
全てには何かしらの繋がりがあるんだと思っています。
最近、なんかの宣伝でもありましたよね。
ひとつ起こした行動が、世界的な事象に発展する、という内容。
たった一匹の蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を起こすこともありうる、
という話もも読んだことがあります。
どこかのクイズ番組でもみました。
『たこ焼き屋が流行った』というスタートから
『女の子が綺麗になる』という結果までの過程(流れ)を4つ書きなさい、というような。
(1つの正解しかないわけではないのですが、例えば
『たこ焼き屋が流行ったら』⇒(ご飯をたこ焼きで済ます人が増えることで)⇒
(栄養バランスが崩れ)⇒(「たこ焼きを食べた後にはこれで栄養補給!」みたいな商品がでると)⇒
(栄養バランスへの意識が高まるため)⇒『女の子が綺麗になる』とか)
そう。
ずっとそう思ってたんですよね。
『全ては繋がっている』って。
でも最近、「それでも、それぞれの事象は独立してるんだ」と考えを…加えるようになりました。
何かが原因で、何かの結果があっても、
それはそれぞれ独立した事象でもある。
女の子が綺麗になった原因を紐解いていけば、たこ焼き屋の流行にたどり着くのかもしれないけれど、
女の子が綺麗になったことは、ひとつの事象。
そしてたこ焼き屋が流行るのも、また別のひとつの事象。
栄養バランスが崩れるのも、新しい商品がでることも、
全て繋がってはいるけれど、それぞれが、それぞれなんだな、と。
なんて言えばいいんだろう。
人は一人では生きているわけではなく、必ず誰かと繋がって生きている。
それ故に、起こす行動の一つ一つが必ずどこかで誰かに影響を与えている。
だからといって、自分の行動がどんな形で、どこで、誰に、影響を及ぼすかまではわからないんです。
『たこ焼き屋が流行った』からといって『女の子が綺麗になる』という結論しか出ないわけじゃない。
途中の過程が変われば『惨めな女の子が増える』という結果になるかもしれない。
自分の起こした、これから起こす行動がどんな結果を生み出すのか。
それは、決められない。絶対に決められない。
起こりうる影響の可能性としては、百通り…千通り考えられるでしょう。
考えることは重要だと思います。
でも、そればかり考えていて、結局何もできなくなってしまう様ではよろしくない。
考えた上で、どの事象(結果)になっても、
それは自分の選んだ行動の結果であるんだということを受け止められれば、
それでいいんだと思うようになりました。
ちょっと前に、流行語大賞になりしたよね。
『想定の範囲内』
何かが起きた時にすぐに対処できるように、自分で責任がとれるように、
ある程度の過程や流れ、繋がりを『想定』しておく。
重要なのは『その上で行動を起こす』こと。
行動を起こさなければ『想定』も単なる妄想です。
ここ数年、私はその『行動』ができてなかった。
『想定』に捉われすぎて、その先が怖くて『行動』を起こせなかった。
今年も、そんなことがいくつもありました。
『全ての事象は繋がっているけれども、それぞれが独立したひとつの事象なんだ』
とある程度割り切ること。
それが来年の私の課題です。
という若干意味不明な記事を最後に2010年を締めくくらせていただきます( *´艸`)
今年ももありがとうございました。
あなたに優しく素晴らしい、新しい年が訪れますように(-人-)
~*~写真は 2007.02.08 台湾にて、花開く御茶。~*~
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2010-12-23 (Thu)
11月22日に大叔母が亡くなりました。
→ ReadMore
お疲れ様です。-mi-です。
大叔母というと、血縁的には結構遠いです。
4親等。父の父(私の祖父)の妹です。
祖父は3人兄弟。
祖父・亡くなった大叔母・そしてさらにその下に大叔母
が一人。
祖父は、両親が結婚した際にはすでに亡くなっていたのですが、
大叔母2人とは近しく過ごしていました。
西日暮里に戦火を免れた大きな日本家屋がありました。
贅を尽くした限りの家で、
アールデコ調の棚、照明。
灯篭が3つぐらいある御庭。
私の本籍地でもあるそこに、大叔母2人で住んでいました。
2人とも、波乱万丈な人生だった聞いています。
亡くなった大叔母は某化粧品会社の社長の元に嫁ぎ、女の子を出産。
その後離婚し、数年後に再婚すれども、またもや離婚。
下の大叔母は結婚後若くして未亡人になったそうです。
上の大叔母は理系の人間で、頭はクリア。
御琴に人生を捧げ、現役引退後もその活動のために世界中を飛び回っていました。
下の大叔母は長唄とお茶。お茶といっても煎茶の方です。
二人は、お互いがお互いを支えあうように、ずっと生きてきました。
5年前、さすがに2人だけでの生活が厳しくなり、
体力的にも家の維持はできないという事情から、
上の大叔母は介護付きのホームに、下の大叔母は高層マンションに引っ越しました。
無人になった家はしばらく放置されていたのですが、
昨年、正式に取り壊し土地を売却。
上の大叔母は『御先祖様に申し訳ない』と泣いていました。
その後、様々な利権争いが起こり、
それが落ち着いたころ、新たに御墓を購入しました。
(今までの御墓にはいろいろな事情で入りたくない、と)
『まだまだ入るのは先になるわねー。誰が最初に入るのかしら』
とかいっていた矢先、急性心筋梗塞で、突然、上の大叔母が、いなくなりました。
8月にはお誕生日会をし、
9月には敬老の日のお祝いをし、
11月には回転寿司に行きました。
(回る御寿司が食べたい、と言っていたのですが、
その日はあまり混んでいなかったので回っておらず、それが思い残り)
10月からは母と週交代でネイルカラーをやりに行き、
11月20日には、持っていってもすぐに読まれてしまう本を追加しに、
父がホームを訪れていました。
何の予兆もありませんでした。
私の部屋には、今度行ったときに塗る予定だった新しいピンクのマニキュア。
大叔母の部屋には、誕生にプレゼントした、まだ一度も袖を通していない、
今年の冬に初めて着るはずだったブラウス。
ただ、昨日と同じように明日も生きていてくれるんだと思っていました。
いつかはその時が来るんだろうけど、
祖母の時のように、何度か危篤状態が続いて、
残される側も少しずつその心の準備をして…。
そんな風に『その時』は訪れるんだと思ってました。
ホームからの第一報は母が受けました。
発見された段階ですでに「心肺停止」
すぐに母から連絡を受け、私も大叔母が運び込まれた病院に駆けつけましたが、
結局一度も心拍も、もちろん意識も戻ることはありませんでした。
身体にたくさんの管が挿されて、
機械の力で送り込まれる空気によって、
ただ規則的に胸が上下している大叔母がいました。
それでも法的には「死亡」ではなく…。
あまりに突然のことで信じられない気持ちの中、
連絡の取れない下の大叔母を待つことなく、
やはり仕事から駆け付けた父と、母と、私の3人で
11月22日午後2時22分に「死亡確認」をしました。
その後は…人が一人死ぬとこんなにも大変なのか、
と思うほどに様々な手続きや事後処理があり、
亡くなった状況上、大塚の監察医務院で解剖も行われ、
バタバタと、あっという間に年末が来てしまいました。
今回のことは、自分で思っていた以上に応えているようで
実はこの1ヶ月かなり凹んでます。
でも昨日月命日だったので、
御寺で保管していただいている御骨にお参りに行ったら、
…少し気持ちが楽になりました。
大叔母にだけ相談していたことがあります。
それをしっかりと他の家族に話すこと。
それが当面の課題です。
晩年、私を実の孫以上に可愛がってくれて、
いつも笑顔で話しを聞いてくれた大叔母。
数日前大叔母が使用していたお部屋の整理に行ったら、
たくさん飾ってある写真の他に、
枕の横から私との2ショットの写真が出てきました。
『もっと顔を出せばよかった。一緒にいる時間を作ってあげればよかった』
そう思ったら、涙が溢れて止まりませんでした。
なんだか長々と書いてしまいましたが、
私は亡くなった大叔母が大好きでした。…今でも大好きです。
大好きな大叔母が、安らかな眠りにありますように…(-人-)
今日もありがとうございます。
あなたに優しい明日が訪れますように(-人-)
~*~写真は 2008年お散歩中 にて。~*~
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大叔母というと、血縁的には結構遠いです。
4親等。父の父(私の祖父)の妹です。
祖父は3人兄弟。
祖父・亡くなった大叔母・そしてさらにその下に大叔母
が一人。
祖父は、両親が結婚した際にはすでに亡くなっていたのですが、
大叔母2人とは近しく過ごしていました。
西日暮里に戦火を免れた大きな日本家屋がありました。
贅を尽くした限りの家で、
アールデコ調の棚、照明。
灯篭が3つぐらいある御庭。
私の本籍地でもあるそこに、大叔母2人で住んでいました。
2人とも、波乱万丈な人生だった聞いています。
亡くなった大叔母は某化粧品会社の社長の元に嫁ぎ、女の子を出産。
その後離婚し、数年後に再婚すれども、またもや離婚。
下の大叔母は結婚後若くして未亡人になったそうです。
上の大叔母は理系の人間で、頭はクリア。
御琴に人生を捧げ、現役引退後もその活動のために世界中を飛び回っていました。
下の大叔母は長唄とお茶。お茶といっても煎茶の方です。
二人は、お互いがお互いを支えあうように、ずっと生きてきました。
5年前、さすがに2人だけでの生活が厳しくなり、
体力的にも家の維持はできないという事情から、
上の大叔母は介護付きのホームに、下の大叔母は高層マンションに引っ越しました。
無人になった家はしばらく放置されていたのですが、
昨年、正式に取り壊し土地を売却。
上の大叔母は『御先祖様に申し訳ない』と泣いていました。
その後、様々な利権争いが起こり、
それが落ち着いたころ、新たに御墓を購入しました。
(今までの御墓にはいろいろな事情で入りたくない、と)
『まだまだ入るのは先になるわねー。誰が最初に入るのかしら』
とかいっていた矢先、急性心筋梗塞で、突然、上の大叔母が、いなくなりました。
8月にはお誕生日会をし、
9月には敬老の日のお祝いをし、
11月には回転寿司に行きました。
(回る御寿司が食べたい、と言っていたのですが、
その日はあまり混んでいなかったので回っておらず、それが思い残り)
10月からは母と週交代でネイルカラーをやりに行き、
11月20日には、持っていってもすぐに読まれてしまう本を追加しに、
父がホームを訪れていました。
何の予兆もありませんでした。
私の部屋には、今度行ったときに塗る予定だった新しいピンクのマニキュア。
大叔母の部屋には、誕生にプレゼントした、まだ一度も袖を通していない、
今年の冬に初めて着るはずだったブラウス。
ただ、昨日と同じように明日も生きていてくれるんだと思っていました。
いつかはその時が来るんだろうけど、
祖母の時のように、何度か危篤状態が続いて、
残される側も少しずつその心の準備をして…。
そんな風に『その時』は訪れるんだと思ってました。
ホームからの第一報は母が受けました。
発見された段階ですでに「心肺停止」
すぐに母から連絡を受け、私も大叔母が運び込まれた病院に駆けつけましたが、
結局一度も心拍も、もちろん意識も戻ることはありませんでした。
身体にたくさんの管が挿されて、
機械の力で送り込まれる空気によって、
ただ規則的に胸が上下している大叔母がいました。
それでも法的には「死亡」ではなく…。
あまりに突然のことで信じられない気持ちの中、
連絡の取れない下の大叔母を待つことなく、
やはり仕事から駆け付けた父と、母と、私の3人で
11月22日午後2時22分に「死亡確認」をしました。
その後は…人が一人死ぬとこんなにも大変なのか、
と思うほどに様々な手続きや事後処理があり、
亡くなった状況上、大塚の監察医務院で解剖も行われ、
バタバタと、あっという間に年末が来てしまいました。
今回のことは、自分で思っていた以上に応えているようで
実はこの1ヶ月かなり凹んでます。
でも昨日月命日だったので、
御寺で保管していただいている御骨にお参りに行ったら、
…少し気持ちが楽になりました。
大叔母にだけ相談していたことがあります。
それをしっかりと他の家族に話すこと。
それが当面の課題です。
晩年、私を実の孫以上に可愛がってくれて、
いつも笑顔で話しを聞いてくれた大叔母。
数日前大叔母が使用していたお部屋の整理に行ったら、
たくさん飾ってある写真の他に、
枕の横から私との2ショットの写真が出てきました。
『もっと顔を出せばよかった。一緒にいる時間を作ってあげればよかった』
そう思ったら、涙が溢れて止まりませんでした。
なんだか長々と書いてしまいましたが、
私は亡くなった大叔母が大好きでした。…今でも大好きです。
大好きな大叔母が、安らかな眠りにありますように…(-人-)
今日もありがとうございます。
あなたに優しい明日が訪れますように(-人-)
~*~写真は 2008年お散歩中 にて。~*~
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